宮本武之輔の経歴

1892(明治25)年1月、興居島(現愛媛県松山市)に生まれ、小学校の頃父親が事業に失敗して全財産を失い中学校に進学できず、瀬戸内海航路の貨客船のボーイとなって家計を助けた。その後、興居島の篤志家宮田兵吉の援助を受け勉学の道に戻り、私立錦城中学校(東京)に編入学し、異父兄窪内石太郎の影響を受け工科のコースを歩む決心をする。第一高等学校を無試験入学、東京帝国大学土木工学科を主席(恩賜の銀時計組)で卒業後、大正6年内務省に入省する。

利根川、荒川の大規模河川改修を手掛け、荒川では、「小名木川閘門」の設計施工を担当し、大正12年から大正14年の1年半、鉄筋コンクリート構造物の研究のため、欧米諸国(フランス、ドイツ、イギリス、アメリカ)を歴訪した。 昭和2年の信濃川大河津自在堰陥没事故で、内務省の威信をかけた可動堰建設の陣頭指揮をとり、出水や風雪、風土病と戦いながら、わずか4年後の昭和6年に完成させ、越後平野を洪水から守り、民衆のために尽した。 また、コンクリート工学博士となり、「鉄筋コンクリート」「治水工学」等を執筆、昭和12年に東京帝国大学教授(河川工学)を兼任する。 日本工人倶楽部発足など、技術者の地位向上の運動を展開するとともに、科学技術の体制づくりのため、科学技術庁の設立に取り組んだ。

昭和15年に内務省土木局から、内閣直属の中国占領地域に対する最高行政機関であった興亜院の技術部長に抜擢され、昭和16年には国の最高政策立案機関であった企画院の次長(官僚のトップ)に就任。 1941(昭和16)年12月、東京で悪性肺炎のため急逝(享年49歳)。