宮本武之輔について

1 宮本武之輔の顕彰碑

松山市駅発の電車に乗り、終点の高浜駅で降りる。すぐ前の船着き場から興居島由良行きの連絡船に乗ると10分ほどで由良の港に着く。この港に降りて左に1~2分歩くと植木に囲まれた宮本武之輔の顕彰碑に出会う。

興居島由良にある宮本武之輔の顕彰碑

興居島由良にある
宮本武之輔の顕彰碑

表面には「偉大なる技術者 宮本武之輔博士 この島に生る」と彫られ、裏面には「宮本武之輔君は正義の士にして信念に厚し 卓抜せる工学の才能と豊かなる情操と秀でたる文才とを兼ね具へ終生科学立国を主唱す 知る者皆其の徳を慕う 明治25年1月生 東京帝国大学工学科卒業・内務技師として我国土木事業に盡瘁 興亜院技術部長として大陸の建設事業を指導 企画院次長として産業立国の策定に挺身 昭和16年12月東京に於いて没す 昭和29年5月全日本建設技術協会が建立」

と書き込まれている。しかし、松山が生んだ優れたエンジニアにもかかわらず、松山市民はおろか出生地の興居島の住人さえもその功績を知るものは多くなかった
。蛇口をひねれば水が出ることが、当たり前の世の中と殆どの人は思っているが、飲料水が届くまでには多くの技師の努力と時間と資本投下があったはずである。電気とて同じことが言える。インフラ整備に尽くした技術者への感謝の気持ちが、今日ほど忘れられていることはない。教育の怠慢であろう。民衆のために生きてきた宮本武之輔の足跡をたどって行くことによって、技術者とはどうあるべきか考えていきたい。

2 貧困の少年時代

船員見習い時代(15歳)

船員見習い時代(15歳)

宮本武之輔は 明治25年1月5日 愛媛県和気郡興居島の由良にて宮本藤次郎・セキの長男として出生し、裕福な家庭の子供として成長した。優秀な子供だったので、5歳で1年早く由良尋常小学校(4年制)に入学するが、明治37年12歳の時に、父親が事業に失敗したため、母と妹は興居島に残り、父親と武之輔は広島県宇品に移り、広島市第二高等小学校(4年制)4年級へ転入学した。小学校を卒業したものの中学校へ進学すること出来ず、明治39年14歳の時に遠縁を頼り大阪に行き、「扶桑丸」の3等見習い船員として研修を受け、半年後、瀬戸内海航路「天竜川丸」のボーイとなって家計を助けた。

3 青雲の青年時代

義父兄窪内石太郎

義父兄窪内石太郎

宮田兵吉翁

宮田兵吉翁

この時期、武之輔は生涯の恩人となる二人の人物から理解と支援を受ける。一人は興居島の篤志家宮田兵吉翁である。兵吉翁は武之輔の才能を惜しみ、学費、生活費の援助を申し出て、勉学の道に進むよう働きかけた人物である。兵吉翁の存在がなければ、武之輔のその後の活躍はなかったはずである。
もう一人の人物は、異父兄、窪内石太郎である。武之輔の生涯は、窪内石太郎なしではあり得ないほど影響を受けている。武之輔は、人生の苦悩をことあるごとに打ち明け相談した。また、石太郎も、弟の才能を評価し、勉学に励む必要性を教え、工科のコースを目指すよう強く説得した。石太郎は東京帝国大学採鉱冶金学科を卒業し、後に明治鉱業株式会社取締役をしている。

宮本武之輔 東京帝国大学時代

宮本武之輔 東京帝国大学時代

勉学の道が開けた武之輔は、私立錦城中学校に編入学し、主席で卒業し、第一高等学校に無試験で入学する。
高校の同級生には芥川龍之介、菊池寛、久米正雄等がいて、一時文学を志し小説を書いたりするが、異父兄窪内石太郎の影響を受け工科のコースを歩む決心をする。
東京帝国大学土木工学科に入学し、広井 勇教授の薫陶を受け主席で卒業後(恩賜の銀時計組)、大正6年8月内務省土木局に技官として就職し、利根川改修工事第2期工事に従事した。この工事現場の上司に大学の先輩青山 士技師がいた。

結婚式

結婚式

大正9年4月には、在学中に婚約していた中路幸子と結婚し、小石川区指ガ谷町に新居を構えた。
利根川、荒川では大規模河川改修を手掛け、荒川の工事では、「小名木川閘門」の設計施工を担当した。
大正12年9月1日、大阪出張中に関東大震災に見舞われ、内定していた欧米視察を断り被害調査を実施したが、その後、勧められ鉄筋コンクリート構造物の研究のため、欧米諸国(フランス、ドイツ、イギリス、アメリカ)を1年半かけて歴訪した。

4 信濃川に挑む

武之輔が帰国して3年目を迎えた頃、内務省が威信をかけて構築した信濃川大河津分水自在堰が陥没した。竣工してわずか5年しか経っていなかった。内務省の威信は地に落ちた。信濃川が干上がり農業用水が枯渇する事態となったため、内務省の威信をかけた可動堰再構築建設工事の陣頭指揮を取らせる技術者として、若きエース宮本武之輔が選ばれた。
武之輔は、昭和2年7月に新潟土木出張所兼土木試験所勤務を拝命し、昭和2年11月 には信濃川補修事務所主任&信濃川維持大河津工事主任の辞令を受け取った。35歳の時である。所長には先輩である青山士が着任したが、課せられた最重要課題は、いかに早く、堅牢な自在堰を再構築するかと言うことであった。

翌昭和3年1月には、東京帝大に提出していた学位論文が認められ工学博士となった。
一方、現場では信濃川補修事務所の横にトタン葺きの小屋を造り、そこで寝泊まりしながら工事の指揮を執った。

5 民衆と共に

完成を間近に控えた昭和5年7月31日から降り始めた豪雨は、信濃川に流れ込み、水位が上昇を続け8月2日になると「上流地方、大破堤の危険迫る」との情報を受けた武之輔は、被害拡大を防ぐため、独断で、工事現場を守っている仮締め切りの破壊を断腸の思いで部下に命じた。この武之輔の英断が、洪水を防ぎ農民を救った。しかも、工事の遅れはたいしたことなく、昭和6年6月にわずか3年半の歳月と440万円の費用で大河津分水路可動堰が完成した。この可動堰は、今日まで問題なく稼働していたが、耐用年数が近いため、さらに新しい可動堰が造られ、昨年、一部を残して取り壊されている。

宮本武之輔が設計施工した大河津分水可動堰の勇姿

宮本武之輔が設計施工した大河津分水可動堰の勇姿

6 内務省官僚時代 技術立国を目指せ

熟期宮本

信濃川大河津分水路可動堰再構築工事を終えた武之輔は、昭和6年7月、内務省土木局第一技術課勤務になり、論文を執筆するかたわら、昭和12年に母校である東京帝国大学教授を兼任した。その一方で、日本工人倶楽部を発足させるなど、技術者の地位向上の運動を展開するとともに、科学技術の体制づくりのため、科学技術庁の設立に取り組んだ。昭和15年に内務省土木局から、内閣直属の中国占領地域に対する最高行政機関であった興亜院の技術部長に抜擢され、昭和16年には官僚のトップであり国の最高政策立案機関であった企画院次長へ就任した。武之輔は資源の乏しい国家は、技術立国を目指すべきとして、事務屋より技術屋が低く見られる官僚機構改革に挑戦する一方で、技術者の活躍する場所として、満州開発に力を入れ、満州の視察を行った。しかし大東亜戦争が始まった一週間後のラジオ演説「国民に次ぐ」の全国放送を行った翌日から体調を壊し、12月24日に肺炎のため急逝した。享年49歳の若さであった。

興居島で行われた村民葬

興居島で行われた村民葬

多摩霊園の武之輔の墓

多摩霊園の武之輔の墓

7 宮本武之輔の略年表

和暦 西暦 年齢 主な事柄
明 治 明治25 1892 0 1 月5日、愛媛県和気郡興居島に、 宮本藤次郎・ セキの長男として 誕生
明治39 1906 15 5 月、天竜川丸の船員見習とな る
明治40 1907 16 4 月6日、私学錦城中学へ編入学※この日から「 日記」始ま る
明治43 1910 18 3 月、錦城中学、首席卒業9 月、第一高等学校へ無試験入学
大 正 大正元 1912 20 1 1 月、校内の煙突から墜落
大正2 1913 21 1 月7日、道後温泉で 療養生活、父藤次郎死去4 月、四国八十八箇所の遍路の旅に出る
大正3 1914 22 9 月、東京帝国大学工科大学土木工学科入学
大正6 1917 25 1 月9日、母セ キ死去7 月、東京帝国大学、首席卒業

8 月、内務省東京土木出張所利根川第二期改修事務所安食工場赴任

大正8 1919 27 8 月、内務技師、敍高等官七等任官、東京第一土木出張所荒川放水路開削事業小名木川閘門の設計施工
大正9 1920 28 4 月10 日、結婚(武之輔28 歳、 中路幸子18 歳)1 2 月、日本工人倶楽部発会、 機関紙「 工人」 発刊
昭 和 昭和2 1927 35 7 月、新潟土木出張所兼務とな り 、信濃川分水大河津の自在堰復旧工事の設計を命じられる9 月、この頃芸妓お千代( 丸子)と出会う

1 1 月、信濃川補修事務所主任、信濃川維持大河津工場主任、新潟土木出張所兼土木試験 所勤務

昭和3 1928 36 1 月、工学博士とな る
昭和5 1930 38 8 月、新潟が集中豪雨に見舞われ、 信濃川分水大河津可動堰の仮締切を切る
昭和6 1931 39 6 月、信濃川補修工事竣工
昭和11 1936 4 4 「 治水工学」 を著す
昭和12 1937 45 9 月、東京帝国大学工学部教授とな る
昭和14 1939 47 1 2 月、宮田兵吉重体の知らせを受け、看病のため興居島へ
昭和15 1940 48 1月8 日、 宮田兵吉死去
昭和16 1941 49 3 月27 日、異父兄・ 窪内石太郎死去4 月、第七代企画院次長就任

1 2 月2 4日、肺炎のため急逝(享年49 )

参考文献:
高崎哲郎(監修) 「久遠の人 宮本武之輔写真集」 1998年 (社)北陸建設弘済会
高崎哲郎  「評伝・工人 宮本武之輔の生涯」 1998年 ダイヤモンド社

8 宮本武之輔の紹介

映画
「民衆のために生きた土木技術者たち」

民衆のために生きた土木技術者たち

民衆のために生きた土木技術者たち

2005年・ハイビジョン・65分
監修=高橋裕(東京大学名誉教授)
監督=田部純正
撮影=藤崎彰
ナレーション=江守徹
企画=大成建設株式会社
制作=大成建設株式会社
(株)日映企画 中嶋康勝

◆第22回土木学会映画コンクール最優秀賞受賞
明治の終わりから昭和の初めにかけ、土木事業を通して苦難にあえぐ民衆を救済する、との志を持ち、卓越した土木技術を駆使して難工事に挑んだ、青山士、宮本武之輔、八田與一。この映画は、廣井勇に学んだ彼等3人の土木技術者としての姿を描いた映像作品である。
この作品では三人の業績を通して、彼らの卓越した土木技術と「人の役に立つ」技術を目指した土木哲学を描くことにより、土木事業の社会的意義を強く訴えている。また同時に彼らの生き様から、「土木技術」とは何であるのか、また、土木技術者としていかにあるべきかを、土木技術者あるいは広く一般の方々にも深く問いかける作品となっている。
(土木学会映画コンクール審査委員会のコメントより)

◆映画の視聴ができるホームページ
公益社団法人 土木学会 土木人物アーカイブス(映像・講演・資料集)
http://www.jsce.or.jp/contents/avc/miyamoto_rireki.shtml

9 信濃川大河津資料館

10 土木学会アーカイブス(土木学会ホームページ掲載)

こちらから、宮本武之輔アーカイブスをご覧いただけます。

11 宮本武之輔に関する書籍(代表的なもの)

○評伝 工人 宮本武之輔の生涯-われ民衆と共にことを行わん
高崎 哲郎1998年 ダイヤモンド社

○久遠の人 宮本武之輔写真集-「民衆とともに」を高く掲げた土木技術者
高崎 哲郎(監修)1998年 北陸建設弘済会

○物語 分水路-信濃川に挑んだ人々
田村 喜子1990年 鹿島出版会

○宮本武之輔と科学技術行政
大淀 昇一1989年 東海大学出版会 平成2年度土木学会著作賞