来賓挨拶 作家 高崎 哲郎様

 作家 高崎 哲郎様

作家 高崎 哲郎様

作家
高崎 哲郎様

皆さん、こんにちは。高崎です。あと伝記を書いただけで私が、こういう赤いリボンをつけるのがいささか照れくさいというか、場違いなような感じがして、ずっと前の人の話を聞いておったんですが「今日は僕からの話は5分間にせよ」という伝令でありますので、私は大体通常、1時間半くらい話をするのですが、いかんせん5分ですので、簡単に申し上げることにします。

宮本武之輔が非常に優れたところは何かと一言でいいますと、彼は大変苦労の天才です。喜びで明るく生きてる人じゃありません。彼の日記を皆さんよく読んでください。それで、よく読めるように今日の銅像を作って関係者の諸君は、「諸君は」って言ったら失礼だけど、見えるようにしてください。彼は中学校の頃から日記を書いてますけれど、ご存じのように小説家になりたかったわけですけども私も小さい頃は文学青年だったんですが、彼のような優れたタレント(才能)はございませんが、小説家になろうとする最大の原因は、「自分の心の中に凄まじい自分の理性では捉えられない凄まじい嵐があるんだ」と、いうことを認識しないと書けないんです。それ以外は薄っぺらな直木賞作家のレベルなんです、と言っちゃあ怒られるかもしれないですけども。それで、その凄まじい苦悩というものを、彼の日記を紐解くことによって、気が付かない人は凡庸であり、彼は、それだけの深い思いを託しながらも、彼の一方の優れた天才、凄まじい読書量と、凄まじい彼の感性と、いろいろなものをマイナスにしながら、文学の道を断念して、技術屋さんになったんです。

ですから、私は先ほど、「これから技術屋として生きていく」というようなメッセージがありましたけども、深い文学的な感性が無い限り宮本武之輔のレベルに達しえません。ですから、「自分を覗きこむんだ、人のせいにしないで自分を覗きこむんだ」という事から出発して、「かんに本を読み、かんに称賛する」という宮本武之輔の50年弱の人生を考えた時に、あまり語意を言われるかという台詞じゃないのかもしれないけれど、私は役人でもなんでもないんで率直な作家としての感想を述べさせてもらうと、やっぱりこの苦悩の天才という部分に、まったく光が与えられない『宮本武之輔』論は、私は聞きたくないし意味が無いというふうに思います。

ひとつあげるならば、彼が中学校のころに盛んに小説を書いてます。驚くなかれ中学生ですよ、皆さん。それともうまことに自然主義文学のような、島村とか、どこかの影響を受けた作品です。ですがその自分の家の凄まじい宿命みたいなものを、中学生が描いてるんです、小説で。こういうところに驚かないままに松山の名誉ある市民として顕彰しようといっても私は若干寂しいんだな、それは。「そういうところに深く手を突っ込んで覗いてみろ」と、いうのを今までもしていただいたろうと思うし、これからもしていただきたい。宮本の魅力はそれに尽きます、はっきり言って。彼は明らかに天才でありエリートだけれども、なんか学歴しか自慢できないようなエリートじゃなくて、そういう深いところを見つめているということを皆さんも感じていると思いますけど、感じているからこそ今日の日になったと思うけれど、そこのところを皆さんと顕彰したいし、私もそこで研究していきたいと思います。以上です。ありがとうございました。

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