宮本武之輔銅像完成記念式典 会長挨拶

「宮本武之輔を偲び顕彰する会」会長  鈴木 幸一

ただいまご紹介いただきました「宮本武之輔を偲び顕彰する会」の会長でございます。今日は、大変お忙しい中、お出でいただきましてありがとうございました。この『宮本武之輔銅像完成記念式典』ということで、一言ご挨拶申し上げたいと思います。

本日は、野志松山市長をはじめ、皆様には大変お忙しい中お集まりいただきましてどうもありがとうございました。高橋裕先生をはじめ多くのかたに遠路からもおいでいただいております。このたび、大変多くの方々のご賛同、ご寄付をいただきまして宮本武之輔の銅像を設置することができることとなりました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。

 さて、昨今、科学技術創造立国を標榜する日本における産業の元気がありません。アジアでは中国や韓国に続き技術の面でも競争に非常に苦労をしております。今日、再び日本の技術者の教育のあり方や技術者の意識改革、こういうものが求められているように思います。宮本武之輔のような戦前の技術者は欧米の技術を貪欲に学び、戦後の日本の発展の基礎を築いていただいておりました。

孔子の論文の中に『温故知新』という言葉があります。「古記に触れて過去の教訓に学び、今後の新しい方向を考える」と、この『故きを温ね、新しきを知る』こういうことは科学技術だけの面だけでなく、社会のあらゆる面で必要であろうと、こういうふうに考えております。そのためには過去の事象、歴史を正しく評価し、それを後世に伝えておくことが必要であろう、こういうふうに考えております。

宮本武之輔の頌徳碑は出身地の興居島由良に昭和29年に全日本建設技術協会によって建てられております。地元の人にもほとんど忘れ去られているこの頌徳碑の裏側にごく簡単に武之輔の業績が記されております。

それを読みますと、この人はどのような人だったのかという興味が湧いてまいりました。

幸い、武之輔は中学入学から49歳で亡くなるまで毎日日記をつけておりました。非常に詳しい日記でございます。その日記を読むことを手始めに、今日おいでいただいております大淀先生、あるいは高崎先生の武之輔の生涯に関する本をはじめ多くの資料を調べていくうちに、武之輔の業績だけでなく人間的な魅力にとりつかれてしまいました。そのような彼が評価されずこのまま忘れ去られることは非常に残念だと、こういうことでそういう宮本武之輔の業績を偲び、それから顕彰するという会をつくろうという考えに至ったわけでございます。

すなわち、彼を偲び顕彰することによって、松山からこのような魅力的な人物が出て、日本で活躍していたことを大勢の人に知っていただき後世に伝えようと考えました。台湾で活躍した『八田與一』というかたが同じような技術者でございますけれども、これを発掘された、ここにおられます古川勝三先生を中心に高橋裕先生の奮闘を受けて、「宮本武之輔を偲び顕彰する会」を立ち上げたわけでございます。

そこで、会としては宮本武之輔日記の音読、興居島での調査の勉強や講演会及び資料展などの展示、そういうことの活動をしてまいりました。宮本武之輔の業績や人間的魅力については、このあとすぐ高橋先生のほうから詳細に説明していただきます。

銅像をなぜ作ったかといいますと、八田與一が台湾で今でも非常に人々にその業績を忘れられずに慕われていると、その原因の一つとして彼の銅像が残っていたということが考えられます。銅像がなければそういう運動は起こらなかっただろうと、このことは八田與一の顕彰に直接関係されました。古川先生が痛切に感じられておられまして、ぜひ銅像を作りたいと、今回の武之輔の銅像設置の非常に大きな動機となっております。またこの銅像設置運動を通して武之輔を一人でも全国の多くの人々に知っていただけるものと、こういうふうに考えたわけでございます。このあとで開かれます銅像は、ここにおいでの書道や銅像製作でご活躍の地元の近藤哲夫先生に作っていただきました。大変立派な物を作っていただきました。興居島由良にある頌徳碑とその傍らに今回設置される銅像が宮本武之輔の業績を今後長く新規の人々の記憶に残ることを祈念するとともに、ご理解をいただいた多くの皆様に厚く御礼申し上げましてご挨拶とさせていただきます。どうもありがとうございました

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