来賓挨拶 松山市長 野志 克仁様

松山市長 野志 克仁様

松山市長 野志 克仁様

松山市長
野志 克仁様

今日は、県外からもお越しの方がいらっしゃいますので、松山市長の野志克仁と申します。この度は銅像の完成、誠におめでとうございます。

皆様ご存じのとおり、この松山市出身の宮本武之輔氏は、内務省の技術官僚でございました。利根川や荒川の改修工事に従事をいたしまして、信濃川の大河津自在堰が陥没した際には、現場主任として設計と施工の陣頭指揮を執りまして、可動堰を完成させるなど治水事業に貢献をされたほか、東京大学の教授として後進の育成にも力を注がれるなど、河川行政の進展、河川工学の発展、技術者の地位向上にも多大な功績を残されました。

「宮本武之輔を偲び顕彰する会」におかれましては、こうした偉業と功績を1人でも多くの人に知ってもらいたいと、イベントでの講演会やパネル展示など、様々な活動を積極的に展開されておられまして、さらにこの度、顕彰をより具体化させるため、銅像の建立にご尽力されたことに、深く敬意を表したいと思います。

この度、銅像を造られたのは、「西条市在住の彫刻家、『近藤哲夫さん』」でいらっしゃいます。実は近藤さんは、教師を長年されていらっしゃいまして、素晴らしい教育に対する考えをお持ちの方でいらっしゃいます。私、前職アナウンサーをしておりました時に、5年前ぐらいになりますか、近藤さんのご自宅に伺いまして、教育論などを大変伺いました。「またお会いしたいな。」と思っていたんですけども、運命的なことが絡みまして、今の立場を得ますと、なかなか松山を離れることができません。「もう、お会いできないのかな。」と思っておりましたけども、この度こういうご縁で、またお会いすることができました。宮本武之輔さん、また、皆さんが会わせてくれたものというふうに、このご縁に感謝をしております。

松山市におきましても、“一人でも多くの人を笑顔に 全国に誇れる、わがまち松山”をキャッチフレーズに掲げ、先人が培ってきた、誇れる地域の宝に磨きをかける「たからみがき」のまちづくりを推進しております。宮本武之輔さんは、まさに、松山、ふるさと愛媛にとって、宝でございます。どうか、「顕彰する会」の皆さんにおかれましても、松山の宝である宮本氏の顕彰活動を通して、地域文化の普及と振興に、いっそうのお力添えを賜りますよう、お願い申し上げます。

結びに、銅像の完成が宮本武之輔氏の功績を、さらに多くの方に知っていただく機会となり、「顕彰する会」の皆様の活動がますます充実することをご祈念申し上げ、私からのご挨拶とさせていただきます。本日は誠におめでとうございます。

来賓挨拶 彫刻家 近藤 哲夫様

彫刻家 近藤 哲夫様

彫刻家 近藤 哲夫様

彫刻家
近藤 哲夫様

このおめでたい席でお喜び、そして私の気持ちの一端を少しお話しさせていただきたいと思います。

私は、いろんな所に彫刻を据えてきました。その中で今回の話をいただいた時に、本当に身が引き締まる思いをしました。なぜかと言いますと、私たちが過去ずっと育ってきたのはやっぱり地域の力ではと思うでのす。

地域の力、そこも私たち大人は子供にやっぱりいろんな方法で、形で、伝えていかなかったら、「これからの子供たちの本当の成長、人間としての大事な、そして力強い成長が望めないではないか」と思っています。子供が本当に好きで教師もやってきました。そんな子供たちへメッセージもあるんですが、武之輔さんのような、こういう凄い方が愛媛から育っていった、その土台も私たちは、「これからしっかり守っていって育てていく」そんな責任もあるんじゃないかと思っています。

そんな経緯な思いの中で、力がないんですが、本当に全力をかけて創らしてもらいました。で、この像が据わった時に、子供たちが見て「彫刻は一言も言いません。けど、一言も言わないほうが子供たちにより深い強い力を与えることもあります。」そんなことを切に願いながら、本当にこの大事な仕事をさせていただいたことに朝夕感謝しながら一生懸命創らしていただくことができました。そして無力で未熟な私ですが、このことを通してやっぱり、また一段といろんな見方・考え方、人間として大事なことを勉強もさせていただいたことに深く感謝をしています。

これからも本当に地域のためにみんなで力を合わせて「愛媛はいい所だ」と、それがまた他でも発揮していくような、そんな物も人もこれから育っていくんじゃないかと、いろんな期待を込めてご挨拶に代えさせていただきます。本当におめでとうございます。

近藤哲夫氏の経歴

1941年 愛媛県東予市明理川(現西条市)生まれ

1964年 愛媛大学教育学部卒、中学英語教諭となる

1973年~1976年 海外派遣教員として台湾の高雄日本人学校に赴任

1983年 妻の病気平癒を願って仏像彫刻を始める

1993年 29年間の教職を中途退職し彫刻の道に入る

作品の一部を紹介

「陽の中で」(1988年)大阪近鉄百貨店 正面玄関

「望郷」(1989年)三重県志摩観光ホテル、今治市タオル美術館ASAKURA

「船」、「四継獅子」(1994年)今治市大西町

「野間馬」(1997年)今治市野間馬ハイランド

「戦友」(2004年)靖国神社 遊就館

その他多数の作品が県内外の公共施設や公園等で見られる。

来賓挨拶 作家 高崎 哲郎様

 作家 高崎 哲郎様

作家 高崎 哲郎様

作家
高崎 哲郎様

皆さん、こんにちは。高崎です。あと伝記を書いただけで私が、こういう赤いリボンをつけるのがいささか照れくさいというか、場違いなような感じがして、ずっと前の人の話を聞いておったんですが「今日は僕からの話は5分間にせよ」という伝令でありますので、私は大体通常、1時間半くらい話をするのですが、いかんせん5分ですので、簡単に申し上げることにします。

宮本武之輔が非常に優れたところは何かと一言でいいますと、彼は大変苦労の天才です。喜びで明るく生きてる人じゃありません。彼の日記を皆さんよく読んでください。それで、よく読めるように今日の銅像を作って関係者の諸君は、「諸君は」って言ったら失礼だけど、見えるようにしてください。彼は中学校の頃から日記を書いてますけれど、ご存じのように小説家になりたかったわけですけども私も小さい頃は文学青年だったんですが、彼のような優れたタレント(才能)はございませんが、小説家になろうとする最大の原因は、「自分の心の中に凄まじい自分の理性では捉えられない凄まじい嵐があるんだ」と、いうことを認識しないと書けないんです。それ以外は薄っぺらな直木賞作家のレベルなんです、と言っちゃあ怒られるかもしれないですけども。それで、その凄まじい苦悩というものを、彼の日記を紐解くことによって、気が付かない人は凡庸であり、彼は、それだけの深い思いを託しながらも、彼の一方の優れた天才、凄まじい読書量と、凄まじい彼の感性と、いろいろなものをマイナスにしながら、文学の道を断念して、技術屋さんになったんです。

ですから、私は先ほど、「これから技術屋として生きていく」というようなメッセージがありましたけども、深い文学的な感性が無い限り宮本武之輔のレベルに達しえません。ですから、「自分を覗きこむんだ、人のせいにしないで自分を覗きこむんだ」という事から出発して、「かんに本を読み、かんに称賛する」という宮本武之輔の50年弱の人生を考えた時に、あまり語意を言われるかという台詞じゃないのかもしれないけれど、私は役人でもなんでもないんで率直な作家としての感想を述べさせてもらうと、やっぱりこの苦悩の天才という部分に、まったく光が与えられない『宮本武之輔』論は、私は聞きたくないし意味が無いというふうに思います。

ひとつあげるならば、彼が中学校のころに盛んに小説を書いてます。驚くなかれ中学生ですよ、皆さん。それともうまことに自然主義文学のような、島村とか、どこかの影響を受けた作品です。ですがその自分の家の凄まじい宿命みたいなものを、中学生が描いてるんです、小説で。こういうところに驚かないままに松山の名誉ある市民として顕彰しようといっても私は若干寂しいんだな、それは。「そういうところに深く手を突っ込んで覗いてみろ」と、いうのを今までもしていただいたろうと思うし、これからもしていただきたい。宮本の魅力はそれに尽きます、はっきり言って。彼は明らかに天才でありエリートだけれども、なんか学歴しか自慢できないようなエリートじゃなくて、そういう深いところを見つめているということを皆さんも感じていると思いますけど、感じているからこそ今日の日になったと思うけれど、そこのところを皆さんと顕彰したいし、私もそこで研究していきたいと思います。以上です。ありがとうございました。

来賓挨拶 国土交通省四国地方整備局河川部長 鈴木 篤様

国土交通省四国地方整備局河川部長 鈴木 篤様

国土交通省四国地方整備局河川部長 鈴木 篤様

国土交通省四国地方整備局河川部長 鈴木 篤様

ご紹介いただきました国土交通省四国地方整備局河川部長の鈴木でございます。本日は11月18日、土木の日であります。この土木の日に合わせまして宮本武之輔氏の銅像の完成、誠におめでとうございます。

私、実は7月にですね河川部長で四国の地、初めての勤務となりました。前職の時は関東方面に勤務しておりまして、確か4月のことだったと思います。今日ご出席されております高橋裕先生が全国のダムの技術者の集まりがございまして、そこで記念講演をされました。その席上で実はこの愛媛の松山の地で地元の人々が自主的に集まって、こういう銅像を造ろうとしているという話をお聞きしました。非常に「そんなことがやられているのか」と思いつつ、7月にこちらに赴任いたしまして今日この席に呼んでいただきました。

私、四国地方整備局に勤務しておりますので宮本武之輔氏が昔、内務省で河川技術者の先駆者であったというご縁でお呼びに願っていると思うのですが、実は私事ではありますが、大学の土木学科の大先輩でもあり、宮本武之輔氏とそういう関係でもございます。二重の意味で本日非常にうれしく思っております。

学生時代には高橋先生に河川工学の授業を取らせていただきました。先生は河川工学の大家であります。でも、それ以外にも、明治以降の土木技術者の先駆者のエピソードを語るような講義がございましてそれも受けました。その時、二十歳位の若いこれから土木技術を目指す者にとっては先輩のそういった活躍を聞くのは非常になんか心を踊る「これから土木技術、一生懸命やっていこうかな」というような気になるような講義でございました。

昨今、非常に土木、それから公共事業に対して厳しい流れがございます。これから土木技術を志す者、また公共事業と土木・建設に携わる者にとっては、このように非常に先人の方がいて、功績があったという事を顕彰していただくのは非常に心の励みになると思います。またご当地の方々は、この地にこういった偉大な方がいたと、また縁者の方々も自らの先祖と申しましょうか、そういう方にこういう方がいたという事の非常に誉れであろうかと思います。

本日、こういった皆さんの心を奮い立たせていただくような、また、こういう事が今後の発展につながるような、この事業をしていただきました、この『宮本武之輔を偲び顕彰する会』の方々のご尽力に大きな権威を評しまして私のご挨拶とさせていただきます。本日は誠におめでとうございます。

来賓挨拶 愛媛県土木部長 井上 眞三様

愛媛県土木部長 井上 眞三様

愛媛県土木部長 井上 眞三様

愛媛県土木部長
井上 眞三様

私、宮本武之輔をほとんど知りませんでした。実は、知ったのは鈴木先生と高松に行くバスの中で初めてご紹介を受けまして、それがたいてい5年前なんです。ちょうど四国の水問題というふうなことで協議する中でバスにご一緒いたしました。その時に鈴木会長から「『宮本武之輔』知っている?君、技術屋さんでしょ?」と言われました。で、「私は知りません。愛媛県で『宮本武之輔』そういう名前も聞いたことがありません。」という話をしました。そして、バスの2時間半の間ずっと武之輔の功績についてお話をいただいた覚えがあります。

会議が終わって帰りしな、またご一緒しましてまた2時間半たっぷりと聞かせていただきました。早速、翌る日になってインターネットで調べました。「えらい功績だ」と、「多大な人だなあ」というふうな感じがしました。今日ここで武之輔の胸像を初めて披露していただく、「どんな人だろう」というふうに思いがあって、呼んでいただきまして、そこであいさつを。ほんとに幸運だったなとそういうふうに思っています。

そこに夏目漱石と正岡子規の2人の写真があります。それに劣らない写真がそこにあると思うのです。ぜひ、将来において武之輔さんの写真が立派に飾られるような愛媛県をつくっていきたいと、土木技術者として考えております。それと、いろいろ文章を読む中で宮本武之輔先生は「民と憂い民と共に悦ぶ」というふうな言葉に高橋先生は惹かれていました。日記に常にそういうようなお声があるというふうに書かれてもおりました。

私たち土木技術者はぜひ、県民・国民そのためにいかに社会資本を立派につくるか、そういう想いで仕事をしているのです。

建設技術者になりまして36年たちますが、そういう想いで物をつくってきたと思います。ところが、3年半前にコンクリートから人へという話があった中で、社会資本、税、公共投資そのものがいかに悪かとそういうイメージを与えるような言葉がありました。私たちは常にコンクリートと人を一体にして人の安心・安全を守るんだというふうなことで勤めてきたつもりでした。非常に残念です。それも先般の、16日に崩壊しまして、コンクリートから人へというようなことも、先の東日本大震災の中で消えてしまいました。いかに将来において社会資本を着実に整理して県民・国民が幸せに過ごせるか、そういうことに努める必要があるということが認識されたんだろうと私はこう思いました。という意味で先生の思いが、先生はいちばん最初に書かれてますが、『技術者にとって社会的地位の確保、これは重要なことです』ということを言われていますが、いかんせんなかなか技術者というのは、朴訥でなかなかおしゃべりも上手にできません。気持ちだけはしっかりもって、この社会情勢に取り組んでいくということを武之輔先生にお約束しまして、私の挨拶とさせていただきます。これからも皆さん、ぜひ土木技術者さんとして立派な仕事をやっていきましょう。以上をもちまして私の挨拶とさせていただきます。

宮本武之輔銅像完成記念式典 会長挨拶

「宮本武之輔を偲び顕彰する会」会長  鈴木 幸一

ただいまご紹介いただきました「宮本武之輔を偲び顕彰する会」の会長でございます。今日は、大変お忙しい中、お出でいただきましてありがとうございました。この『宮本武之輔銅像完成記念式典』ということで、一言ご挨拶申し上げたいと思います。

本日は、野志松山市長をはじめ、皆様には大変お忙しい中お集まりいただきましてどうもありがとうございました。高橋裕先生をはじめ多くのかたに遠路からもおいでいただいております。このたび、大変多くの方々のご賛同、ご寄付をいただきまして宮本武之輔の銅像を設置することができることとなりました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。

 さて、昨今、科学技術創造立国を標榜する日本における産業の元気がありません。アジアでは中国や韓国に続き技術の面でも競争に非常に苦労をしております。今日、再び日本の技術者の教育のあり方や技術者の意識改革、こういうものが求められているように思います。宮本武之輔のような戦前の技術者は欧米の技術を貪欲に学び、戦後の日本の発展の基礎を築いていただいておりました。

孔子の論文の中に『温故知新』という言葉があります。「古記に触れて過去の教訓に学び、今後の新しい方向を考える」と、この『故きを温ね、新しきを知る』こういうことは科学技術だけの面だけでなく、社会のあらゆる面で必要であろうと、こういうふうに考えております。そのためには過去の事象、歴史を正しく評価し、それを後世に伝えておくことが必要であろう、こういうふうに考えております。

宮本武之輔の頌徳碑は出身地の興居島由良に昭和29年に全日本建設技術協会によって建てられております。地元の人にもほとんど忘れ去られているこの頌徳碑の裏側にごく簡単に武之輔の業績が記されております。

それを読みますと、この人はどのような人だったのかという興味が湧いてまいりました。

幸い、武之輔は中学入学から49歳で亡くなるまで毎日日記をつけておりました。非常に詳しい日記でございます。その日記を読むことを手始めに、今日おいでいただいております大淀先生、あるいは高崎先生の武之輔の生涯に関する本をはじめ多くの資料を調べていくうちに、武之輔の業績だけでなく人間的な魅力にとりつかれてしまいました。そのような彼が評価されずこのまま忘れ去られることは非常に残念だと、こういうことでそういう宮本武之輔の業績を偲び、それから顕彰するという会をつくろうという考えに至ったわけでございます。

すなわち、彼を偲び顕彰することによって、松山からこのような魅力的な人物が出て、日本で活躍していたことを大勢の人に知っていただき後世に伝えようと考えました。台湾で活躍した『八田與一』というかたが同じような技術者でございますけれども、これを発掘された、ここにおられます古川勝三先生を中心に高橋裕先生の奮闘を受けて、「宮本武之輔を偲び顕彰する会」を立ち上げたわけでございます。

そこで、会としては宮本武之輔日記の音読、興居島での調査の勉強や講演会及び資料展などの展示、そういうことの活動をしてまいりました。宮本武之輔の業績や人間的魅力については、このあとすぐ高橋先生のほうから詳細に説明していただきます。

銅像をなぜ作ったかといいますと、八田與一が台湾で今でも非常に人々にその業績を忘れられずに慕われていると、その原因の一つとして彼の銅像が残っていたということが考えられます。銅像がなければそういう運動は起こらなかっただろうと、このことは八田與一の顕彰に直接関係されました。古川先生が痛切に感じられておられまして、ぜひ銅像を作りたいと、今回の武之輔の銅像設置の非常に大きな動機となっております。またこの銅像設置運動を通して武之輔を一人でも全国の多くの人々に知っていただけるものと、こういうふうに考えたわけでございます。このあとで開かれます銅像は、ここにおいでの書道や銅像製作でご活躍の地元の近藤哲夫先生に作っていただきました。大変立派な物を作っていただきました。興居島由良にある頌徳碑とその傍らに今回設置される銅像が宮本武之輔の業績を今後長く新規の人々の記憶に残ることを祈念するとともに、ご理解をいただいた多くの皆様に厚く御礼申し上げましてご挨拶とさせていただきます。どうもありがとうございました