交流事業(新潟県燕市)26.8.16~18

愛媛県松山市と新潟県燕市の宮本武之輔をゆかりとした交流を進めて行くこととし、平成26年8月18日(月)に、新潟県燕市の『信濃川大河津資料館』で開催し、宮本武之輔を介した両市の交流促進をしました。

当日は、当会の活動内容を紹介する展示ブースを開設するとともに、愛媛県松山市から少年野球チームを含む子供達約60名の参加もあり、信濃川大河津資料館のリニューアルされた宮本武之輔に関する展示物を見学し、信濃川大河津分水路における可動堰設置に関する功績を学習することができました。

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【左から、信濃川大河津資料館友の会早川理事長、当会鈴木会長、新潟県燕市市役所鈴木市長、愛媛県松山市役所の遠藤副市長、国土交通省信濃川工事事務所の福渡所長】

親族挨拶 後藤 基博 様

 後藤 基博 様

後藤 基博 様

後藤 基博 様

親族を代表し一言ご挨拶申し上げます。我々親族は、宮本武之輔の顕彰碑を守ってまいりました。その役は譲司からわたくしが現在引き継いでおります。本日は宮本武之輔銅像完成記念式典にお招きいただき大変恐縮しておりますが、亡き父の熱い想いを胸に除幕させていただきました。誠にありがとうございました。

「宮本武之輔を偲び顕彰する会」の皆様方に置かれましては、親族と一部の島民しか知らなかった信濃川分水工事と日本の治水工事で手腕を発揮した宮本武之輔の偉業をいろいろな方々に知ってもらうことができたことに、厚くお礼を申し上げます。

その上、銅像が興居島の地に記念碑と並び建立されますことが、親族としてこの上ない喜びであります。今後はこの銅像が小さな離島で育つ子供たちの希望や勇気を育む力となると共に島民と一緒に豊かに育って欲しいと願っています。わたしもその一人として一役を担って参りたいと思います。

本来なら宮本武之輔の実子信氏が御席にてお礼の言葉を申し上げるところでありますが、急病のため出席できなくなりました。本人からの手紙を預かっておりますので代読させていただきます。

 「宮本武之輔銅像完成記念式典」に寄せて。

このたびは遥かなる望郷の空を仰ぎ見るこんな大正の想いに馳せながら感激深くになっております。亡き父、宮本武之輔が世を去ってから1世紀余りの年月が流れてかかる日を間近に控えてきてもいる中におきまして、父が果たしつつ、歩み続けてきた業績を栄光に町と市長はもとより我が国高く技術発展史上に称えてくださることはありがたさが満ち満ちひたすら感激にむせる思いでございます。そうしてそこには、関係された皆様の並々ならぬ心労のほどに、何と申しようとお礼の言葉も察しようもございません。本当にありがとうございました厚くお礼申し上げます。

今後これが機縁となって亡き父生誕の地には、宮本武之輔の存在が永遠に消えることがなく後世の人々の目に伝え続けられる縁にしになろうことかと存じます。亡き父が銅像になって建立されることは他に比類のない顕彰表現であろうかと、そこにはなんとも言い知れぬ感情にむせぶ想いでございます。亡き父の生誕の地は、風光明媚なる瀬戸の海は同時に流浪も激しい豊後海峡に浮かぶ島嶼、興居島であります。

そんな流浪の激しい興居島の存在は短命だった宮本武之輔の生き様とも似つかわしく表号されていようかと思いもしています。そんな銅像自体が島の海岸通りも目抜き鮮やかな通りにと面しており、その場はまさに恰好な松山市役所の興居島支所があり、そこに隣接してはかつて1954年昭和29年に自然石が悠々しく必立しながら「偉大なる技術者宮本武之輔この島に生る」とされた顕彰碑が建立になっております。その同じ場にあたかもそれを表号するかの如くに銅像が建立されるということは、感嘆言い知れぬ喜びであります。身に余る光栄の程にはこの上ない感激が胸中深くに迫る思いであります。ここに関係された多くの方々のご苦労の程に深甚なる感謝の意を捧げたく厚くお礼申し上げます。

このほどせっかく開催される記念式典には、万難を排して出席させていただくその旨のご返事しておりましたのにも関わらず、突然襲われた激しく長い現乱が元での病院へ即刻に緊急処置が施され入院の旨に。そんな、やんごとのない病変の突発にての欠席に、それが残念至極、このような日の再現は後れのない悔しさには他なりません。どうかご容赦の程よろしくお願い申し上げます。

平成24年11月吉日 宮本 信 代読、本日はどうもありがとうございました。

会について

この「宮本武之輔を偲び顕彰する会」は、文才に恵まれた工人(エンジニア)である宮本武之輔の足跡を明らかにすることによって、その偉業を偲び広く世に伝えることを目的とし活動しています。

宮本武之輔(1892(明治25)年~1941(昭和16)年)は、愛媛県松山市沖に浮かぶ興居島(ごごしま)が産んだ戦前を代表する技術官僚です。
彼の生きた明治後期・大正・昭和初期は、日本の近代化が急速に進んでいた時期です。この激動の時代に、篤志家の援助を受けて大学に進学して内務省の技術官僚となり、当時国の施策を決定する最高機関である企画院の次長まで登りつめました。

彼は旧制中学入学時から49歳でなくなるまで克明な日記を書き続けていています。その残された膨大な日記から、宮本武之輔の波乱の人生と土木技術者としてだけでなく一人の人間としてのその生き様を知ることができます。また、この「武之輔日記」は当時の人々の日常生活や考え方も知る上で大変貴重な資料となっています。

活動内容は資料を収集、文献や日記を読む、足跡をたどる、親族や関係者の話を聞く、講演会を開く、展示会を開くなど、多岐にわたっています。

【講演会の様子】


【展示会の様子】


【現地の査察】


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